昭和42年9月4日 夜の御理解
今日は、吉井の波多野さんが御祈念の後に、今日、満六〇才のお誕生日を迎えさせて頂きましたとお礼のお届けがありました。満六〇才の誕生を迎えられて,それで短冊をだされてから、何か一言これに書いてくれと。何かお願いさせて頂きました。「人を大事に」ということを頂きました。改めて、人を軽う見な。軽う見たらおかげはなし。と仰しゃる。しかも、人を軽う見な。軽う見たら、その軽う見るのでなくて、人を大事にすると言うこと。自分が大事にされないならば、自分が人を大事にしていない証拠。それは、神様にも同じこと。いかに神様をありがたそうに、拝むというても、本当の意味で神様を大事にしていなかったら、神様から大事にされるはずがない。やはり、神様から大事にされる人は、神様を丁重に、大事にしているから、丁重に扱われるのである。人もそうです。ほんとにこの、人を大事にしなければ、もちろん軽う見るといったようなことは、信心しておれば軽う見られはしませんもんね。自分自身を思うたら軽う見られやしません。 その上に大事にということは人をね、なでたりさすったりといったような意味じゃございませんでしょう、ね。人を大事にするということが、自分が大事にされること。ですから、自分が大事にされていないとするなら、本気で悟らにゃいけませんです。形でいかにも、大事にしているようでありましても心から心から大事にしてない証拠なんです。ね。もう、これは、もう、絶対な理だと思います。子供がろくそにする。主人から粗雑に扱われる。家内が大事にしてくれない。もう、それは、あなたが、家内を大事に心からしていないからである。ね。子供を粗末にしておるからである。これは、もう、間違いないことだと、こう思います。勿論、形のことでは、ございません。その形のことがです。溢れるようにして形に現れてくると言うことが、私は、いよいよ本当なこととこう思うのです。ね。人を軽う見たら、おかげはない。とさえ、はっきりと仰っしゃっておられます。ね、ですから、人を軽う見るということは、信心しておれば自分自身が分かってくればくるほど、軽うなんか見られません。だけではなく、本当に、大事に、心でざわるとでも申しましょうか。ね。それが、形に現れてくると言った様な信心にならなければならん。
私供が誰から、神様から、大事にされておるだろうか。人から大事にされておるだろうか、丁重にされておるだろうか、もし、そうでないとするならば、本当に神様を本気でもっと丁寧に頂きなおさなきゃいけん。人から大事にされていないならばいよいよ人を心から愛おしむ。真心から、いわゆる、信心で大事にさせてもらうと言う。ね、それが形に現れてこそ、必ずその人は、人に大事いされますでしょう。それこそ、形じゃいけません。もう、心の底から大事に出来れる。それが信心だと思うても良いと私は、思うです。どうぞ。